『2011年新聞・テレビ消滅』

長距離移動のバスの中で読んだ本の感想とか。

  • 2011年新聞・テレビ消滅 (著:佐々木俊尚、発行:文春新書)

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

去年の発行なのでちょっと古いかな? とは思いましたが、web版日経新聞の惨憺たるあり様を予言していて面白いです。


この本が他の「新聞はなくなる」的な本とちょっと違うのは、新聞がなくなるのは構造的なものなので不可避だと言っていること。
自分を含め、ほとんどの「新聞はなくなる」的なことを言う人って、新聞は捏造や恣意的な報道のあり方を変え、お客様の方を向いて商売すれば生き残れるんじゃないかと、ある意味希望を込めて言うのですが、この本は「そんなことはあり得ない」とバッサリ斬り捨て。
佐々木氏はその不可避な構造的なものの説明を「プラットフォーム化」とか「3Cモデル」とか書いてますが、もっとわかりやすく書くとこんなこと。


グーテンベルグ活版印刷を発明する前までは、情報を大量に正確に伝えるための手段はありませんでした。
活版印刷が発明されると情報は紙に印刷され、大量に、そして正確に伝えることが出来るようになりました。
でもその紙をどうやって人に届けるのか? となると人力しかなかったわけです。
郵便配達とか新聞配達とかね。


でもラジオが登場すると電波で音声として情報を伝えることが出来るようになりました。
テレビが登場すると、これも電波で音声と画像で情報を伝えることが出来るようになりました。
でも、これらラジオやテレビで情報を送信するためには大がかりな設備が必要ですし、さらに免許制で誰でもが情報を送信するということは出来ません。


で、登場したのがインターネット。
これだと誰でも気軽に安価で大量に情報を送信し、受信することが出来ます。
郵便配達や新聞配達のような人件費としてコストがかかる方法を取らなくても、ラジオやテレビのような大がかりな設備も免許もいりません。


それじゃあ、情報を伝達するのは紙でもラジオでもテレビでもなくてもよくなるんじゃない?


…ということ。
インターネットだったら安価で大量に、しかもリアルタイムで情報をやりとり出来るんだから、新聞やラジオ、テレビのような、情報の送受信に高コストがかかるものは必然的に淘汰されるんじゃないの? と。
この当たり前な意見に反論できる新聞、ラジオ、テレビ関係者はいないんじゃないかしら?


今や芸能人はテレビや雑誌を介さず直接ファンとの交流をし、イベントの告知をし、プロモーションをおこなっています。
政治家もネットを通して直接国民に意見を伝えています。
政府も新聞やテレビを通さずに直接国民に情報を届けています。
色々なイベントも、色々な商品の情報も、生活の様々な情報がネットで伝えられています。
それらのネットで伝えられている情報を総合すると、新聞やテレビは伝えられる情報量という面でもネットには勝てません。
紙面には限りがあり、テレビに映せる画像にも時間の限りがあるから。
インターネットを介して情報源と受け取り手が直接情報をやりとり出来るようになった今、物理的な情報の伝達手段としての新聞やラジオ、テレビに存在意義はあるのか? と、この本は厳しく問いかけています。


おそらく、自分はこの本で佐々木氏が言ってるようになるんだと思います。
新聞社やテレビ局は単なるコンテンツホルダーになって縮小していくんだと。
彼らはそのことに目を背け続けてますが、その先に待ってるのは惨劇だけだと思います。
惨劇を甘んじて受け入れるか、アメリカの新聞社やテレビ局のようにコンテンツホルダーとして縮小していくのか。
図体だけがでかくなってしまった今の新聞社やテレビ局はどっちも選択できず、ただ「読者が悪い」「視聴者が悪い」と言い続けていくのでしょうね。


<PS>
ただ、ラジオ局はその点で言えばいち早く生き残りに着手したと思います。
その方法とは「radiko」。
radikoはいま、地方局を守るためだと言って聴取出来る地域を限ってますが、逆に地方の局を、いや日本全国のラジオ局を日本全国どこででも聴けるようにしたらどうでしょうか?
オイラはそうしたらラジオ局は生き残れると思います。


PS2
例えば大阪で沖縄のラジオが聴ける、鹿児島のラジオが聴ける。
東北や北海道の局が聴ければ…、四国の局が聴ければ…、これがどれだけすごいことか、実感できる人はいますかね?
地方の人は東京の局を聴きたいかもしれませんが、大阪で地方の局を聴きたいって人もいることをお忘れなく。