『オタク論2!』
今日はこの本を読んで考えたことをつらつらと。
- 作者: 唐沢俊一,岡田斗司夫
- 出版社/メーカー: 創出版
- 発売日: 2009/05/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 31回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
ちょっとこうすればもうちょっと楽に生きられますよ、って感じの。
「リアルでもキャラは重要だ!」とか「本を捨てたら見えてくる世界」とかはちょっと小ずるく、でも楽に生きるためにはっ? て感じのノウハウ本って感じ。
最近そういう新書も増えてますが。
「ババンババンバンバン♪ネットするなよ!」は、ネットリテラシーに対する問題に一石を投じてるので、最近増えてきた「リアル世界、とくにリアルマスコミは信用出来ない、ネットでの情報だけがあればいいんだ」って人には読んでいただきたいかな。
裏をとらず、批判的意見には耳を貸さず、他人の発言を自分の発言として振りかざし、自分の結論と違う結論は全否定するネット発言の危うさについて、そろそろ語り出すネット論客が出現してもいいんじゃないかなぁと自分は思います。
"ネットで書かれていたから"ってのはニュースソースになり得ないってことに気づかないと、ネットはいつまでも裏情報の世界であり、ブログがジャーナリズムとして機能することはないんじゃないかなぁ。
最近は裏取りをするマスコミも減ってますが、自分はマスコミジャーナリズムとブログジャーナリズムの決定的な違いは裏取りをするかどうかだと思ってますので。
ブログ=真実が語られている場所、って感じで、ネットを盲目的に信じるのはやめようって意味でも「ネットするなよ!」って意見には賛成。
んで、ここからは本の感想と少し離れるのですが、この本、『オタク論』なのにあまりオタクについては語られてません。
語られている部分もあることはあり、それはいつもながらのオタク第一世代のとんちんかんな目線で語られていてピントがずれているため
「あー、この老害二人、いつもながら仕方ないなぁ〜、はいはい、バーチャル、バーチャル、バーチャルが悪いのね(笑)」
って感じで苦笑するしかないのですが、前作のようにオタクについて語られている部分はかなり少ないです。
オタク論を期待して買うと、ほとんどが文系的知的生活術が書かれていて肩すかしを食うことになるでしょう。
じゃあ、なぜオタク論としてオタクについて語っていないのかということを考えてみたのですね。
前作を読んだとき、自分はこの二人がオタク第一世代であり、第一世代の権威付けのために語っているからピントがずれているのだと書きました。
オタク論を書くのならオタク最前線をフィールドワークして書いた方がいいのではないか? と。
で、今作を読んで思ったのは、この二人はオタクについて語りたくても語れないのではないか? と。
なぜならすでにオタクっていうのは世の中からいなくなっちゃったから。
存在しないものについては語れないですよね? そういうことなんじゃないかと。
「いやいや、オタクはいなくなったって何言ってんだよ? 秋葉原やコミケにいけば山のようにオタクがいるじゃないか?」って反論は出るでしょう。
でもそれは「"秋葉原"というテーマパークを楽しむ人」「"コミケ"というテーマパークを楽しむ人」であって、オタク、ではないんですよね。
昔はオタクを意味していた、自分の身なりに気を遣わない人も対人コミュニケーションが苦手な人も、それぞれ「身なりに気を遣わない人」であり「コミュニケーションが苦手な人」であって、オタク、ではないと。
ネットやパソコンに強い人も「ネットやパソコンに強い人」であって、オタクじゃないんですよね。
じゃあ、なぜそんなことになったかというと、世の中が趣味に生きることを容認する世の中になっちゃったから。
大人になってもマンガを読んでいいし、ゲームもしていいし、フィギュアを集めてもいいし、昔でいうところのオタク的趣味は別に悪いことじゃなく、逆に世の中にとっては消費活動であるから社会貢献になるんではないかと寛容になったから。
社会的に「オタク趣味? OK!」ってなっちゃったから、オタク趣味をアイデンティティとすることが出来なくなっちゃったんじゃないかと。
「アニメ見てます」「ゲームやってます」「美少女フィギュア集めてます」ってのが普遍的な行動として社会に容認されるようになったことで、他社との区別化、アイデンティティの拠り所として機能しなくなったんじゃないかと。
最近それを強く感じるようになったのが、オタドル=オタクアイドルの登場。
オタドルってのはオタク的趣味を持つアイドルってことなのですけども。
「私、こんなオタク趣味を持ってます、だからシンパシーを感じてね、応援してね、ファンになってね」って感じで自分は辟易するのですけども。
じゃあ、なぜオタドルってのが登場するのか? ってことなんですよ。
オタク相手のニッチな商売してどうするの? って思っていたのですが、実はオタクってのはニッチな市場じゃないんですよね。
もはや全国民がオタク化しているから。
オタクであることが普通の人にとってもシンパシーを感じることが出来る共通アイテムになってるんですよね。
だから最近、オタク趣味を公開しだした芸能人が増えてるじゃないですか。
昔だったら「オタク趣味を持ってる芸能人=キモイ」だったのに、今や「オタク趣味を持ってる芸能人=我々と同じで親しみやすい」って感じで。
そういうふうにオタクが趣味人として容認され、すべての国民が趣味人として生きることが出来るようになると、差別、いや、区別のための言葉である「オタク」って概念の型枠が溶けてきちゃった。
オタクってのは別に区別でもなんでもないよ、と。
そうしてオタクってのはいなくなっちゃったと。
ただ、趣味人だけが残ったと。
だからいないモノについては語れない、と。
マスコミも最近オタクバッシングをしないでしょ?
いないモノは叩けないから。
社会がオタクに寛容になった背景には貧困ってのもあるとは思いますが、そっちの切り口はそういうのがお好きな方にお任せします。
ながながと書いてきてまとまりがなくなっちゃったので、ちょっとまとめ。
現在、2009年時点でのオタク論ってのは回顧録、ノスタルジーでしかない、と。
オタクってのはもういなくなっちゃった、と。
だからいないモノについては語れない、と。
そうすると、オタクを他社との区別化、アイデンティティの拠り所として論を張っていた人たちはどうするんかいな? と。
他の差別利権のようにオタクも特別なモノとして残そうとするんかいな? と。
「俺はオタクだから、もっと社会はオタクに寛容であるべきだ!!」って。
そういうふうに権利化していくよりは、今や区別は溶けきってしまってるんだから、頑強に「オタクは違うんだ!!」と声をあげるより社会の中に溶け込んでいった方がいいんじゃないかな。
「オタク論」が必要とされない世の中はきっとオタクにとって住みやすい世の中だと自分は思います。