「指摘」と「貶し」の境目。

と、23日みたいなことを書くと、物事はすべて褒めなきゃいけないのかとか、マンセーしなきゃいけないのかとか、考えちゃう人もいるかと思うんですが。
いや、いいんですよ。
悪い点・問題点の指摘は相手の成長を促すためのもんだから、どんどんやっていただいて。
書かれる方も、百の賛辞より一の指摘の方が何倍も成長できますし。


でも、単なる貶しやこき下ろしや粗探しや揚げ足取りは書きなさんなよ、と。


そう考えると「問題点の指摘の文章」と「単なる貶しの文章」には境目があるんじゃないでしょうか。
自分の足りない脳みそで少し愚考。


まず境目のひとつは主観と客観がはっきりしているかしていないか。
「指摘の文章」の場合、主観か客観か、思考の立ち位置がはっきりしている。
それに対し「貶しの文章」の場合、主観的に書いたものを客観的に書かれたかのように置き換えている。
「貶しの文章」は思考の立ち位置がはっきりしていない。


それはなぜだろうかと考えると、客観を装うことにより、普遍的な価値をつけようとしているんじゃないかな。
「誰も知らない某さんが言ったこと」より「みんなが言ってること」の方が説得力ありそうでしょ?
もうひとつは客観を装うことにより、主観の責任を逃れようとしてるんじゃないかと。
「私は○○だと思う」と書くと、○○と書いたことに責任が発生しますが、「みんなが言ってた」と書いたら責任が発生しないでしょ?


客観的に書く場合でも、対象にとって都合が悪い客観ばっかり拾ってきて文章を構成する人もいて。
都合が悪い客観のみを拾ってくるってのは主観的な作業ですよね。
その点でも貶しの文章はやっぱり立ち位置がはっきりしない。


そして「指摘の文章」と「貶しの文章」のもうひとつの境目は、文章を書く目線が対象物の上と下、どちらにあるか。
「指摘の文章」の場合、目線が対象物の下にあり、下から見上げています。それに対し「貶しの文章」は目線が上で、上から見下ろしています。


じゃあ目線が上か下か判断するのはどこだろうと考えると、やっぱりそれは丁寧語・尊敬語・謙譲語がきちんとできてるかどうかだと思います。
それらの言葉がなぜ出来たかというと、コミュニケーションを円滑におこなうために必然的に生まれてきたんだと思うんですね。他人を尊敬し、敬う気持ちから生まれた言葉。
これがきちんとできてるかどうかが「指摘の文章」と「貶しの文章」の大きな境目なんじゃないかしら。


いろいろ思い浮かぶことはあるんですが、結局「指摘の文章」と「貶しの文章」の差って文章を書く能力の差じゃないのかなぁ。
主観・客観をはっきりさせるのは文章を書く上では初歩も初歩、文章にはきちんと主語を付けましょうってことだし、目線が上・下ってのも丁寧語・尊敬語・謙譲語がきちんと書けるってことだし。
そう考えると

文章を書く能力が低い人が書く文章=貶しの文章
文章を書く能力が高い人が書く文章=指摘の文章

って、単純に能力の差になっちゃうような気がします。


文章を書くのが上手いんだと思っている人は、自分の書いた文章を自分に向かって他人に音読して読んでもらうといいですよ。
書いてるだけでは気づかない、自分の文章のまずさに結構気づきます。
自分に向かって自分の文章を読んでもらって、主語や述語が無くて誰が誰に対して話してるかわからなかったり、丁寧語・尊敬語・謙譲語がないがために馴れ馴れしさや見下し感を感じてムカムカしたあなた。
そのムカムカはみんながアナタの文章を読んで感じてるムカムカです。


読まれてムカムカを感じるってことはやっぱり文章を書くのが下手なんだと自分は思いますよ。