『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』

仙台から名古屋へ向かうフェリーの中で読んだ本。

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

ニューヨーク・タイムズ紙の新聞記者、マーティン・ファクラー氏が2011年3月11日に発生した東日本大震災の報道記事を通して日本の新聞社、新聞記者のおかしなところを指摘した一冊。
これを読んだ新聞記者は即死するんじゃないかな?
それぐらい新聞記者にとって耳が痛く、そんな新聞記者をのさばらせてる我々市民にとっても耳が痛い一冊です。


被災地の取材にも仮設記者クラブを作って横並びの記事を書くとか、記事にされるべき本質とは違うところばっかり質問する記者とか。
原発事故で南相馬市から逃げ出し南相馬市を見殺しにしようとした記者と新聞社とか。
ニュースバリューを求めて著名な被災地の取材はするけれど、震災被害が大きくて孤立している小中の市町村にはまったく行かず、孤立を深めさせた記者や新聞社とか。
SPEEDIのことを知ってたのにわざと隠して原発事故の被害を広めた記者や新聞社とか。
出てくるわ出てくるわ、新聞社と新聞記者の悪辣さとその害が。
詳細はこの本を是非とも読んで欲しいです。


「それは本当に伝えなきゃいけないことなの?」という記事の本質から離れたディテールばかりにこだわったり、政府や企業と癒着してしまったがために「本当に伝えなきゃいけないこと」を伝えられなくなったり。
今の新聞が「民主主義を支える情報装置」としてまったく機能していないことをズバズバと指摘。
(外国の新聞社は記者クラブに加入してないのでそれが出来る)
民主党の北川俊美元防衛相の誕生日を担当記者50人で祝ったこともさることながら、それを嬉々として新聞記事にして報道して満足してるなんて、これはもはや市民のための報道機関でも何でもないだろうと。

もしこんな誕生会を企画してプレゼントまで送っていたことがわかれば、ニューヨーク・タイムズの記者なら即刻クビを宣告されるだろう。
(中略)
こんな距離感では、ジャーナリストとしてまともな記事を書けるはずがないと断言できる。

マーティン・ファクラー氏の問題追求はそこでも終わらず、ジャーナリスト訓練を受けていない人間が記者となり、サラリーマン化してしまった記者への追求もおこなっています。
こんなのが新聞記者を名乗り、民主主義の根幹を支える公器だって言ってるんだから、我々の民主主義がいかにおかしなことかもよくわかります。
そしてなぜそうなってしまったかも日本の歴史から説明してるので、今の日本って戦前から変わってないんだなぁということがわかって面白いです。


この本で自分が一番これだと思ったのはここかな?

権力にあまりにもすり寄りすぎるのもいけないし、現実的ではない左翼的な批判では何も変えられない。
日本のメディアはどちらかに偏っており、バランスを欠いているように感じる。
記者クラブメディアは権力側に寄りすぎているし、雑誌メディアは批判のための批判に終始している。
既存メディアが衰退したのは、そんな現状を人々に見抜かれ始めたことも大きな理由ではないだろうか。
最終的に社会を良くするための主張を発信するのがジャーナリストの務めだ。

この見抜かれてることに目を閉じ耳を塞いでいるかぎり既存メディアはどんどん衰退し、新メディアに切り替わっていくでしょうね。
この本では新メディア、インターネットについても書かれてます。
日本の新聞の未来についても色々と提言してるので新聞関係者は読んでみればいいんじゃないかな?


今の日本の新聞がいかに政府発表を伝えるだけ、大企業の情報を伝えるだけ、権力者・権力機関の情報を伝えるだけの広報紙になってるか。
そんなのが本当に新聞と言えるのか。
そしてそんな新聞をのさばらせておくことが我々市民にとって、民主主義国家にとって本当にいいことなのか考えさせてくれる一冊です。


2012年7月8日に第1刷り、9月7日には第5刷りが発行されてるのでかなり読まれてる本じゃないかな?
「新聞が何かおかしい」と思うかたに是非とも読んでいただきたいです、はい。