販売所を殺すのは新聞社。

今日はこの話題かな。

http://www.tanteifile.com/diary/2009/06/23_01/index.html
新聞の押し紙問題を取り上げた週刊新潮の連載がとうとう終了しました。
記事を書いていたライターの黒藪氏が販売所よりの人だから書けなかったのだと思うけれど、押し紙ってこういう副産物を生むんですよ。
配達員の質の低下という。

記者がバカな記事を書く。

購読者が減る。(…1)

新聞社は購読者が減っても押し紙すれば問題ないから大量に押し紙を発行。
安心してバカな記事を書き散らし。

押し紙分、販売所の経営圧迫。

販売所は人件費を安くせざるをえなくなり、まともな人間が求人に応募してこない。

販売所が前科者や留学生なんかのわけのわからない人間の温床に。

配達員が問題を起こす。

新聞社本体「そんなの俺様は知らないもんね。販売所の責任でしょ?」と販売所を斬り捨て。

購読者が減る。

(…1)へ戻る。

もちろん、まっとうに仕事をしてる配達員さんの方が多いのも本当なんですよ。
だけど押し紙が販売所の経営を圧迫して、まともな人を集められなくなってるのも事実なんです。


配達員さんって、新聞紙をお客様に届けるときお客様に直接接する「アンカーマン」なんです。
お客様と直接接する、貴重な人たちです。
そのアンカーマンにまともな人間がいなかったらお客様は新聞紙にどういう印象を持つでしょうか?
拡張員もお客様と直接接するアンカーマンですよね。
そういう人間がお客様を恫喝したり騙したりして新聞を取らせたら、お客様はどういう印象を新聞紙に持つでしょうか?
新聞社本体はアンカーマンの質はあくまで販売所の責任だと言い張るのでしょうか?


販売所だってお客様商売なのですから、やっぱりお客様に愛される地域販売所でありたいわけです。
さらに言えば勤務してる配達員さんも生き生きとした、活気あふれる店にしたいわけですよ。
自分が勤務した二つの販売所の所長さんたちも、そういう夢や希望にあふれて販売所を開業した人たちでした。
でもそういう希望を持っている人の夢をことごとく新聞社本体は摘み取ってきました。
それを自分は直接この目で見てきました。
だから本当に許せないわけですよ、今の新聞社本体のやり方は。


はっきり書くと、自分は新聞がどういう記事を書こうがどうでもいいと思ってます。
右でも左でもどっちでもいい。
だけどあまりにも「商品としての新聞紙」を考えた観点が新聞社本体には抜け落ちすぎ。
記事を書いて、それが紙に印刷されて、お客様に配達されるまでのトータルでの視点が抜け落ちすぎ。
トータルでの視点があれば、わけのわからない、身元もあやふやな人間をお客様と直接接するアンカーマンにしようとは絶対に思わないでしょう。
新聞社がやるべきことは紙面の刷新よりもアンカーマンの質の向上だと自分は思います。
じゃあアンカーマンの質を向上させるには?
押し紙をやめ、販売所の経営を健全化することですよね。


新聞を殺すモノの正体はわかりませんが、これだけははっきり言えます。
販売所を殺すのは新聞社。


別にね、オイラは若い人に新聞配達をやってもらいたいと思ってるわけじゃないんですよ。
オイラは団塊の世代の人の小遣い稼ぎと健康維持に新聞配達はちょうどいいと思うので。
オイラの知り合いは67歳ですが、バイクにまたがって颯爽と新聞配達をしてます。
でも人がいないからって67歳で、エース級の部数を配達しなくちゃいけないってのはどうなんかいな? と。
団塊の小遣い銭程度も支払えないってのはどうなんかいなぁ〜と思うのです。


で、配達のフロントラインに居た自分たちがいつも言ってたこと。
「記者は偉そうに記事を書いてるけど、お前が書いた記事を持って新聞の契約を取ってきてみな? 1部でも取れたら土下座で謝ってやるよ? 取れないだろ? 絶対に誰も1部だって取ってくれないよ? お客様はお前の記事に金を払ってるわけじゃないんだよ?」
トータルの視点を養うために、新聞社の社員には1年間の販売所研修を義務づけてみたらどうでしょうかねぇ。
たぶんみんな逃げ出すでしょうね。


そういやそろそろ6月か。
梅雨に突入してそろそろ新聞奨学生の人も色々思うところが出てくる時期ですね。
週刊新潮で取り上げられたりして押し紙がメジャーになってきたので、次は新聞奨学生を問題にしていこうかなぁと思います。
蟹工船どころじゃない現在の地獄ですよ、新聞奨学生は。