文字では伝わりにくいことがある。
8月24日のironさんの日記より
- この仕事は「人権」が前提なんだ
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=310389&log=20060824
これだけを読むと介護の現場や介護する人、介護される人を自分が厄介者扱いにしてバカにしてるかのような発言をしてるようにとらえられるので補足的に。
「死ぬのを自分で選ぶ」とか「姥捨て山復活」なんて私が言った日には「キミ、いますぐ介護仕事を辞めろ!」って怒鳴られるなと思いました。
そう言われたら自分は
「はい、わかりました。それじゃあ自分は介護される人を少しでも少なくするために「予防」と「リハビリ」の道へ進みます」
と答えます。
これは介護についての自分の考え方が、「介護される人をいかに減らすか」という考え方だからです。
自分は介護を否定しているわけではありません。
介護の現場で働いてる人は並大抵の苦労ではないでしょう。
その苦労の心中は察するに余りあるでしょう。
ですが自分の知るかぎり日本では介護の「対処」には大金が投入されていていますが、「予防」と「リハビリ」はかなりないがしろにされています。
特に「予防」はまったく何もされていません。
「対処」にばかりお金をかけていると、超少子高齢化時代を迎えたときにどうなるでしょう。
このまま「予防」も「リハビリ」もせず、介護される人だけを量産し続けてもいいのでしょうか。
そのため自分は介護については「予防」や「リハビリ」とセットにして考えなければいけないと思っています。
その「予防」や「リハビリ」がアンチエイジングなどの医学的アプローチや義体化などの科学的アプローチ。
(他にも健康指導やスポーツ指導など、今の行政サービスの見直しなどもあります)
この「予防」や「リハビリ」の分野に「対処」よりも多くの予算と人員を割くことが出来れば、かならず介護される人を減らすことが出来ると思います。
そしてそれは高額な医療費の削減や、高齢者の社会参加というカタチになって、「対処」よりもっと大きな社会還元をもたらすでしょう。
(そうなると介護される人が減り、介護業者は過当競争になるから、介護業者の人から「今すぐ「予防」と「リハビリ」を止めろ!!」って怒鳴られるかもしれませんが)
人間が人間としての尊厳を持ち、生に対して充足感を持ったまま死を迎えられることが死に対する理想の姿だと自分は考えています。
生きられるところまで"健康"に生き、死ぬときは自分で選ぶことが出来るのも尊厳死のひとつの姿ではないでしょうか。
ただ、「予防」や「リハビリ」をしても100%介護される側にはならないとは限らないので、「対処」である介護の現場もすごく大切です。
「予防」「対処」「リハビリ」のどれかひとつだけではなく、三位一体で考える必要が自分はあると思います。
<PSその1>
ironさんが誤解してるかもしれないので書きますが、自分は介護されてる人間に「邪魔だから死ね!!」と言っているのではありません。
生きたいところまで健康に生きて、自分で死ぬときを選べることが技術的に可能になる時代が来ますよというのが前述の「死ぬのを自分で選ぶ」という発言の真意。
不老不死の技術が確立されたとき、人はどう己の死と向かい合うかというのを書いたのが以前の日記であり、前述の発言。
介護される人間に「お願いだから死んでくれ、決断してくれ!!」と言っているのではないです。
<参考>
- 2006-05-01 死ぬときを自分で決める時代。
http://d.hatena.ne.jp/bolt69/20060501
<PSその2>
なんか自分が「邪魔だから死ね!!」みたいに言ってるように受け取られかねないのでこちらに書いてみました。
<PSその3>
- <国民医療費>32兆円超、2年連続で過去最高を更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060825-00000068-mai-pol
「予防」がいかにないがしろにされているか、そしていかに大切かがこの医療費を見ればおわかりになるかと思います。