メディアスクラムの話。

12月7日の朝日放送『ムーブ!』を見ていて気になった記事。

週刊ポスト」12月16日号 
広島女児段ボール詰め殺人 疑われた「ご近所住民」の"大迷惑" 女児段ボール詰め殺人現場の迷走


「私の所に押しかけてきたマスコミはまるで最初から犯人扱い。『事件の時、どこにいました?』『誰といました?』と、何度も何度も聞いてくる」
憤まんやるかたない、といった様子で語るのは中年男性のA氏。
事件当日、殺された少女が、A氏の自宅近くを通っていた姿が目撃されたことから連日マスコミの取材攻撃にあった。
「カメラで角度を変えながら執拗に撮影されてごらんなさい。誰だって怒りますよ。さらに私の行動を1日ずっと追いかけている記者も居て、家族もカメラとマイクに怯えて外に出ることができませんでした!」


こんな混乱はなぜ起きた?


事件直後から捜査本部はマスコミに散発的に断片情報を発表。
いわく事件前、裸にコート姿の不審な男性がいた。また、現場近くで40歳くらいの男性と女の子の乗る車の目撃証言があった…等々、捜査本部から発表されるこうした手掛かりにマスコミ陣は右往左往。"住民同士の犯人探し"まで起こった。
そしてその結果、最大の被害を受けたのは段ボールの発見現場の近所に住むC氏だったという。


C氏は事件に関する重要な情報の提供者として、警察のみならずマスコミ取材にも積極的に応じた。
ところが一部マスコミがC氏の証言を「つじつまが合わない部分がある」と言い出し、真の容疑者以上に疑われる事態に…!
取材していたジャーナリストは「あるテレビ局は連日、C氏宅近くに大型の中継車を張り付けて、C氏の買い物、散歩姿まで"独占"で撮り続けていました。他のマスコミも"C氏番"を置き、常時20人以上の記者がウロついている状態」
別の取材していたジャーナリストは「ピサロ容疑者に逮捕状の出た11月29日には、午前中から逮捕状が出るとの情報が流れていた。C氏宅にもマスコミが集結し、まさに臨戦態勢さながらでした」という。


容疑者逮捕後、C氏の自宅をたずねると穏やかな表情ながらこう苦言を呈した。
「私自身は(マスコミから)犯人扱いされたような質問を受けたとは思っていません。ただ、途切れることなくインターホンが鳴らされ、食事もゆっくりできず、トイレもオチオチ行っていられない。家族も『ストレスで疲れた』とこぼしていました」

この後、ジャーナリストの二木啓孝氏が「ポストもやってるくせに、ポストには言われたくない」と答えてましたが、それじゃあ報道被害はなくならないですよね。
ポストの記事を痛烈な批判としてマスコミ陣は真摯に受けとめないといけないと思いますよ。


二木氏の話は置いといて、これ、メディアスクラムの問題ですよね。報道被害の問題。
こういうひどい扱いをされるのなら黙っておこうとか、関わり合いになるのを避けようとか思う人がいて当然。
結果それが警察への情報提供の少なさになったりして、ますます犯人を検挙するのを困難にしている部分があるのではないでしょうか。
(栃木の事件の過熱報道を見てるとつい……、ね?)


大綱を読むと、人権擁護法案はこういう報道被害による人権回復も考慮してたんです。
人権擁護法案大嫌いな自分でも、この法案の報道被害による人権回復の部分は評価していました。
しかしマスコミは報道被害の規制の部分を取っ払ってしまえば法案の本当に危険な部分には知らんふり。
人権擁護法案の恣意的で危険な運用の可能性には触れず、自分たちさえ特ダネのために規制されなければいいやって考えはジャーナリストというより屍肉をあさるハイエナやハゲタカでしょう。
ジャーナリズムを名乗るのもおこがましい。
こういう報道被害を繰り返していれば、そのうち法律で規制しようという動きになるのがわからないかなぁ?


被害者の実名報道にしたって「なぜ被害者の実名報道が必要なのですか?」という質問に答えられるジャーナリストやマスコミ人はいないんじゃないかな?
いっそのこと「お涙頂戴の記事にして視聴率が取れるから」と潔く答えてもらった方がいいですけどね。
「ジャーナリズムは商業主義ではない、高潔なものだ」と言い張りたい連中には絶対にそれは言えないでしょうけれど。


安易に商業主義に走らず、「これは大がかりな取材が必要だ」とか「これは取材を自粛しよう」とか"自分で判断できる"ジャーナリストやマスコミ人が必要なのだと自分は思いますよ。


「あの局もやってるからいいだろう」とか「あの雑誌もやってるくせに!!」なんてのは"自分で判断できる"ジャーナリストのあり方なんですかね? 二木啓孝さん?