アイ・アム・プロレスラー

パワーボムは高さじゃない、押さえ込み方だ」by天龍源一郎


今週の週刊ゴング天龍源一郎インタビューも良かったなぁ。


「ヘタすりゃパスボールでサヨナラになっちゃう場面でね。誰もそこでフォークを投げないから、だから俺が目立ったんですよ。」


自分のページが今あるのも、4〜5年前のインターネット助走期に、テキストと伝言板などの交流系がメインストリームだった時代に4コマというビジュアル、画像で勝負してたから。
絶対にこれからは画像がメインストリームになる時代が来るって確信してたから、ヘタな絵を書き散らし、一生懸命練習した。
これが決定的な差別化に繋がったと思う。


誰もそこでマンガを描かないから、だから自分が目立った、ということ。


山善広インタビューより。


「G1に限らずシリーズを途中で欠場しちゃうというのは、僕としては一番嫌なことなんで。」


「お前も頑張ってんなら俺も頑張ろうというのは、敵ながら思う人は多いと思うんですよね。逆にコイツがやっているから俺は絶対に負けないぞとか、途中で崩れないぞとか。」


よく、「今日は○○だったので更新は休みます」とか「縮小します」とか書いてる人がいるけれど、そういうのを見ると「『休みます』とか『縮小します』って書く体力や時間はあるんだな」と思ってしまう。
休むんなら何も書かず休めばいいのにと。
そういう文章を見ると「今日は休みますけれども、明日はちゃんと営業しますんで来てくださいね。」といった訪問者へのおもねりが見えて嫌な気がする。
もしくは「自分はこんなに大変なんですよ。だから同情してくださいよ。」といった憐れみを誘う文章に感じてしまう。


休むなとは言わない。人それぞれ事情があるだろうし、自分もコミケで上京したときには休みになるから。
それでも来てくれる訪問者に対して申し訳ないなという気持ちが「休みます」という文章になるのもわかる。
でも「『休みます』と書いてる時間はあるんだな」と思うと何か気持ちがしらけてしまうのも本当のところで。
「ゲームやってて時間がないので〜」とか書いてあると「ふーん」と。
それって本当に訪問者のことを考えて書いてるのかな? と。


これがネット上の文章の難しいところだと思います。
「休みます」という言葉ひとつとっても感じ方は人それぞれ。
自分も普通ならどうとも思わないんだけど、「できるのにやらない」ことを言い訳するための「休みます」は正直反感を感じます。
「できないんならやらない」ことも大切なんじゃないかと。


自分の限界というものを目の前に突き付けられたとき、人はどうするか。


ひとつ目はあきらめてしまうこと。
「できないんならやらない」ってのはこれ。もうそれに使う時間はムダだから、他のことをやったほうが有意義だよってこと。
諦めるってのは負けじゃない。
もうひとつの可能性を伸ばすということだ。恥ずかしいことでも何でもない。


ふたつ目はそれから目を背ける、受け入れない、他に理由を作りそのせいにする。
「忙しい、忙しい」とか「体調不良で〜」ってのがこれだと思う。もう無理だと思ったら、限界を受け入れた方がいいと思う。
諦めるってのは負けじゃないから。
でないとやっぱり人が見てて見苦しいと思う。
「そんなに忙しい、ツライ、しんどい、休むっていうのなら、もうやめてしまえば?」
この言葉に勝てる人がどれだけいるだろうか?


みっつ目は、それを乗り越える努力をする。
「突き付けられた限界」というのは、「今の状態の自分」の限界だ。
自分の中の何かを少しでも変えることができれば、突き付けられた「今の限界」は自分の限界ではなくなる。
限界ってのは自分で作るものだと思う。それなら変えることもできる。
このことに気づけない人がふたつ目の状態に留まっているのだと思う。


「休みます」という言葉で自分自身に限界を作りたくない。
だから自分はこの言葉に反感を持つのかもしれない。
自分自身で限界を、壁を作ってしまって、と。


「休みます」という言葉を使うのは簡単だ。
でもそれは自分自身に限界を作ってませんか?
自分自身に妥協を許してませんか?
この言葉を使う前にちょっと考えてみては? と思ったり。


PS


ニュース系サイトのくせに「ネタがない」って書くのは己の無能さをひけらかすことだと思います。
「取り上げるネタがない」って書くことで「俺のメガネにかなうネタはなかった。だから俺ってこんなにスゴイでしょ?」って言いたいのかもしれないけれど
自分から言えば「お前の限界はそこだったんだよ」と。
「お前はしょせんそこまでの人間だったんだよ」と。
「自分で自分の限界を作っちゃったんだよ」と。


「ふたつ目」で止まってる人間を見ることほど気分が悪いことはないです。