「心をこめて作る事」
今日は『駄文にゅうす』さんのところ経由でこの話題を。
http://d.hatena.ne.jp/he-na-he-na/20090311/1236781969
うーん、ちょっと違うかなぁと思うのはこの点。
批評家と二次創作者が行っている行為・立場は同じ
一次創作に対する二次創作、一次創作に対する批評っていうのなら、二次創作と批評は立場も行為は同じだと思うんですけど、ですがこの話題で語られているのは二次創作への批評ですよね?
あくまでも一次創作への批評じゃなく、二次創作への批評。
それなら立場も行為もまったく違うと思うのです。
自分はこのかたは「一次創作への批評」と「二次創作への批評」を混同してるか、あえて批評家としての立場を守るために「一次創作」と「二次創作」を意識的に混同させたのかどちらかだと思うんですが。
「『アイドルマスター』という一次創作への批評」と「『アイドルマスター』の二次創作であるMADへの批評」は同じではないですよね?
批評の対象が違うのですから。
二次創作者も創作者です。制作者です。
制作者と批評家の関係はものすごく大雑把にいえば「料理店のシェフ」と「広告代理店」といえるでしょう。
「お客様」ではなく「広告代理店」ね。
『食キング』(著:土山しげる、発行:日本文芸社)の「神戸ステーキ対決編」でこういう人物が登場します。
「本山益造」、有名料理評論家です。
なぜ"有名料理評論家"という職業が成り立つのでしょう?
それは"有名料理評論家"というのが広告代理店だからです。
彼が書く記事によって客足は伸びも減りもします。
だから客足を伸ばしたい店は彼に幾ばくかのお金を払って提灯記事を書いてもらいますし、逆にライバル店を潰したい店は彼にネガティブ記事を書いてもらいます。
ですが「神戸ステーキ対決編」では彼の書いたネガティブ記事では客足は減りませんでした。
なぜか?
料理の味の方が本山の批評を上回っていたからです。
その料理を作っていたのが彼。
「沖田誠」、神戸五稜郭邸のシェフです。
批評家、評論家にとっては自身の存在を否定されるような、叩いて叩いて叩きまくりたくなるようなキャラです。
彼がシェフをつとめる神戸五稜郭邸は評論家のネガティブ記事では客足を減らしませんでしたが、ある原因で客足を減らしていきます。
その原因がこれ。
誰の意見も聞かない、独善的な考え方。
お客様の嫌いなモノも平然と出しちゃうし、食べ残しをした客は「味がわからないヤツら」と切り捨てちゃう。
自分は「創作者と評論家の関係の話」のほとんどがこの「沖田誠と本山益造」的な関係をもとに書かれてるんじゃないかと思うのですね。
評論家は必ず創作者より上から目線で偉そうで権威的。
創作者は「じゃあ手前が作ってみりゃいいじゃん!? 出来ないだろ!?」的な逆ギレ的な考え方。
創作者と評論家が批評をされる側する側という関係である以上、相容れることは絶対にないと思います。
創作者である自分も以前は批評に対して「じゃあ手前が作って作ってみろよ!?」という考えを持っていました。
ですがちょっと考え方をあらためまして。
それは「自分は批評家に認められるために料理を作ってるんじゃないんだ」と。
広告代理店じゃなくお客様に向けて料理を作ってるんだ、と。
「二次創作パロディは作者の為のものではない、見る人あっての二次創作パロディだ!」って感じ。
創作者側である自分からぶっちゃけて言わせてもらうと、創作者は批評家側を向いて作品を作る必要はないと思います。
「批評家」じゃなく「見てくれる人」に向けて作品を作ればいいと。
作品が気に入らなければ「見てくれる人」は離れていくし、気に入ればちゃんと見てくれるし。
じゃあ「料理店のシェフとお客様の関係」のあいだで「評論家」はどういう役割を果たすのか? っていうことが問われるんだと思うんですけどね。
評論家の役割ってなんなの? と。
創作者側の回答はこの言葉につきると思います。
『食キング』の最終話より。
批評や評論って、創作者にだけ向けられたものじゃないですよね。
批評や評論も、それを「(創作者を含め)見てくれる人」に向けて書かれるものです。
「見てくれる人」に向けて書かれるものである、ということなら、二次創作も、二次創作への批評も同じだと思います。
上の北方歳三の言葉はそのまま批評や評論にもあてはまるんじゃないかな?
批評や評論も「(創作者を含め)見てくれる人」から評価を受けるということを忘れない方がいいと思います。
もちろん創作者も「(批評家・評論家を含め)見てくれる人」から評価を受けるんですけどね。
そういう点では批評家も創作者も同じだと思います、はい。
あと、蛇足。
色を変えておきます。
自分は評論家や批評家の役割って、料理の評論家なら「記事を読んだ人に美味しいものを食べてもらい、不味いものを食べる確率を減らす」ことだと思うんですね。
やっぱり不味いものよりは美味しいものを食べたいもん。
だから評論としての需要があると。
映画の評論なら面白くないものに時間とお金を使うより、面白いものに時間とお金を使ってもらうと。
評論ってそのためのガイドだと自分は思うんです。
あえて言えばそれは記事を見てくれる「お客様主義」。
誰に対して記事を書いてるのか? の自覚が「批評や評論」のブログには必要だと思いますが、「感想文」であるブログにはそこまで必要もないのかな? と思います。