東野圭吾氏の作品を読む。

最近、東野圭吾氏の作品を読んでおります。
夏コミ以降読んだ本をあげるとこんなところ。
容疑者Xの献身
探偵ガリレオ
『予知夢』
『悪意』
『だれかが彼女を殺した』
私が彼を殺した
上の3つがガリレオこと湯川学シリーズで、下の3つが加賀恭一郎シリーズ。
『だれかが〜』と『私が〜』は今となってはめずらしい、作者が読者に謎解きを挑むかたちになっているのでミステリ好きにはおすすめ。


んで、『私が彼を殺した』の解説の中の一文。

謎解き小説の約束上、地の文で虚偽の記述が書かれることはないが、会話文ではその限りではない。
また都合の悪い心理描写や、行動などが<省略>されていることも念頭に置いておかなければいけないのだ。

<参考>

  • 『ミステリー小説の禁じ手』の話(Suntory Saturday Wating Bar "AVANTI")

http://www.avanti-web.com/pastdata/20041030.html
会話文では「その発言をした人物が嘘をついている」こともあるのでトリックとして使うのは問題ないが、謎解きを主眼とする推理小説では"地の文"に虚偽の記述を書いてはいけないのですね。
つまり読者にまったく提示されていない情報をトリックに使ってはいけないということ。
この解説文を読んですごく納得。


自分は某作品を「ミステリーとしては禁じ手を使ってて読むに値しない」と言っているのですが、その理由がこれ。
読むに値しないのはミステリーとしては、なんですよ。
ホラーとかオカルトとかファンタジーとかSFとしてなら素晴らしい作品だと思うのですが、作者が読者に謎解きを挑む推理小説の形式(あるいは販売のキャッチコピー)を取る以上、禁じ手は使っちゃいけないと思うんですよ。
挑戦的なミステリーのキャッチコピーで販売されてたので期待して購入したら、読者にまったく提示されていない情報をふんだんにトリックに使った実はトンデモSFだった!! ってなったらそりゃやはり詐欺ですよ。
ミステリー好きな自分としては騙された感バリバリだったわけで、それがずーっと某作品への反感になっていたのですけども。


その騙された感バリバリだった自分は『だれかが〜』と『私が〜』を読んでやっと「某作品に怒っても仕方ない」と考えることが出来るようになりました。
「あれはジャンルが違うんだから怒っても仕方ない」と。
作者が読者に謎解きを挑むってのはこういうことなんだと示してくれた、東野氏の2作品を読んでとても満足してお腹一杯になりましたので。
そうだよなぁ、作者が読者に謎解きを挑むってのはこういうことだよなぁとしみじみ。


出来ましたら『だれかが〜』と『私が〜』を読んで、作者が読者に謎解きを挑戦するということを体験していただきたいなぁ。
え? 字ばっかでイヤだ?
オイラは加賀恭一郎の容姿を『るろうに〜』の斉藤一を想像して読んでるのですが、かなり萌えますよ(笑)。