『アイドルマスター』再開。

…というわけで引っ越しで中断していた『アイドルマスター』を再開。
やっと菊池真でファン数101万人、各マスター取得、ランクA、ベストエンドでクリア。
いやー、何というか、菊池真はある意味ベタなキャラなんですが、そのベタさがいい(笑)。
そのベタさの反動がエンドで「くーっ!!」と来ます。
そのうち4コマで描いてみようかしら。


でね、今回ぶっちゃけの話を書くと、真はお気に入りのキャラなのでベストエンドで終わらせたかったんです。
でも『アイドルマスター』ってエンディングまでかなり時間がかかるゲーム。
ゲームに充てることの出来る時間の余裕は今の自分にはありません。
なので各攻略サイトを見て、自分なりに攻略ルートを決めてプレイしていたんですが、これがどうにも窮屈で。


アイドルマスター』って、プレイ時間がゲーム内時間で52週なんですが、これがすごくタイト。
だからある程度攻略情報に乗っ取ってプレイし、営業では常にパーフェクトコミュニケーションを取ることが要求されます。
つまり「正解の選択」ですね。
「正解の選択」とは言い換えれば「ゲーム内で理想とされているプロデューサー」を演じるということ。


でも、その「正解の選択をするという行為」に自分は違和感があるのです。
選択肢が出れば「どれが正解か?」じゃなく「どれが自分の本音に近いか?」で選びたいんですよ。
でもベストエンドを見るためには「本音」ではなく「正解」を選ばなきゃいけない。
ゲームを進めていくと、「ベストエンドを見るためのプロデューサー」と「こういうふうにプレイしたい自分自身」との乖離が自覚出来て、「正解を選ぶ行為」に自分はとてつもない閉塞感というか、窮屈さを感じるのです。


結局その「正解を選ぶ行為」がゲームを一本道にしてしまうんですよね。
「正解じゃない選択を選んでもバッド直行」ではない多様性が必要なんじゃないかなぁ。


ゲームの多様性だ何だといっても、結局ゲームは「正解を選ぶ行為」ということからは脱却出来ていないんじゃないかしら。


と、ここまで書いてきて何ですが、ゲームというのは目的というか、求められる結果が決まってるんですよね。
例えば『ドラクエ』なら悪の魔王を滅ぼすことだし、『アイマス』ならトップアイドルを育てること。
そういう目的が明快に決まってるのであれば、「正解を選ぶ」というのは正しい行為なんですよねぇ。
というか、正解を選ぶことこそがゲームの本質。
であるならゲームとはその「正解を選ぶ行為」を楽しめるかどうか? なのかしらと思ったり。