オタクの定義化

今年がどんな年だったか考えようとして、ここ一週間ぐらい色々考えて、書いては消し、書いては消ししてきたのですが、やっぱりこれは書いておかねばならんだろうと。
それは2006年は「オタク=萌えコレクター」という定義が世間的にも一般化した定義として確立した年だなぁということ。


「オタクとは何か?」というのは90年代からずーっと色々な人が定義してきましたが、一般化するには至りませんでした。
一般的にはまだ「オタク=宮崎勤」というイメージの方が強かったんじゃないかな?
だから旧来のオタクたちはその悪いイメージを払拭するためにオタクの定義化に躍起になっていたのですが。


でも『電車男』の大ヒット以降、オタクの中の一部である「萌えコレクター」が「オタクのステロタイプ」としてマスコミに取り上げられ、その取り上げられたスタイルが「オタク」として一般的な定義になっちゃったんですよね。
つまり「オタク=萌えコレクター=二次元キャラ好きで、秋葉原でグッズを買い漁ってる人」って。
あれだけオタクを定義するのは難しかったのに、いま町中で「オタクってどういう人?」って聞いたら、みんな気軽に答えると思いますよ。
そして今やあれだけ語るのが難しかった「萌え」の定義についても、町中で聞けば普通にみんな答えるでしょう。
そう考えるとマスコミの力って大きいなぁと思います。


今年、夏コミで出された岡田斗司夫氏の『オタク・イズ・デッド』にその辺は書かれてるので是非読んでみて欲しいです。
2006年、オタクが「萌えコレクター」として明確に、一般的に定義されてしまった今、ぬえみたいな存在だった「オタク」というのは「オタク」という名前を失ってしまった、と。
今までは「オタク」っていう漠然とした、ぬえみたいな趣味なら誰でも住めてたマンションが、これからは「萌えコレクター」にしか住めません、となっちゃったんですよね。
ぬえみたいな存在だったオタクたちはオタクが一般的に定義化することで「オタク」から追い出されてしまうことに。
あるいは追い出されなくてもすごく居心地が悪いので「ここは自分のいる場所じゃないな」と。
じゃあ、そのぬえたちはどこに行くんだ? という、ぬえの生き残り方を紹介したのが岡田氏の『プチクリ』だったんですけども。


そして世間的な、一般的な定義が定まれば、そこに向けた商売が始まるんですよね。
昔は「オタク」というのはぬえみたいな存在だったので商売的な狙い打ちは難しかったんですが、今は「萌え」という狙い撃ちが可能です。
2006年にも萌えコレクター向けに大量の「萌え」が出されました。
萌えアニメに萌えゲーム、萌え小説に萌えマンガ、萌えグッズに…色々。


でもねぇ、今年自分は何ひとつ萌えなかったのですよ。
何ひとつ萌えなかったので「?」と思ってるときに読んだのが『オタク・イズ・デッド』。
あぁ、自分が居心地の悪さを感じてたのはこのためだったのか、と。


例を出せば、元々秋葉原ってぬえみたいな街で、家電以外にも色々なものを売ってるごった煮みたいな街だったんですよね。
だけども今は「萌都」として、萌えの街になっちゃった。
ごった煮みたいな街が好きだった、かつてのオタクの中には「萌都」から足が遠のいたって人も多いでしょう。
居心地の悪さってのはそういう感じ。


で、何か結論を出そうと思って色々考えてたのですが、まとめきれないので書けません。
ただ、2006年は「オタク=萌えコレクター」ってのが確定した年だったなぁ、と。