知識の専門家と経験の専門家

鳥取県人権救済条例について、条例の解釈論がネットで色々なされてますが、自分のような無学の人間が知りたいのは「その条例が施行されても、本当に自分たちが危惧するようなことは起こらないのか?」、この一点だけなのです。
この一点だけを「はい」か「いいえ」で専門家の方には答えて欲しいのですが、なぜかまた法解釈のむにゃむにゃの話へ引き戻されて「そうなるかもしれないし、ならないかもしれないし」でゴチャゴチャになっちゃう。


実は専門家になればなるほど「安全です」「大丈夫です」「効きます」とは言わないのです。
それはその専門分野を知れば知るほど問題点も見えてくるからなんですね。もしかしたら起こりうる事態も想定できるから。
だから「安全です」「大丈夫です」「効きます」とは言わないのです。


でも「安全です」「大丈夫です」「効きます」と言う専門家もいますよね。
「危ない」「危険」「絶対ダメ」とも。
極端に言えば「はい」か「いいえ」を断言する専門家もいます。
それでは「言う専門家」と「言わない専門家」の違いは何でしょう?


それは「知識の専門家」と「経験の専門家」の違いなんですね。
知識の専門家は大丈夫とは言わない。
経験の専門家は大丈夫と言う。


本当は知識と経験の両方が揃っていて本物の専門家だと思うのですが、なぜかどちらかに偏りがちなんですよね。
大学の研究室と実際の現場の違いというか。そこで断絶が起こってるというか。


実際のところ、頼りになるのは経験の専門家だと自分は思います。
これも自分の経験からなんですが(笑)。


じゃあ経験できないモノ、まだ経験する前のモノはどうするのか?
施行前の法律なんかはまだ経験できないモノなわけですから、経験の専門家はいませんよね。
でも似たような経験から類推することは出来ます。
諸外国の例や過去の歴史からなど。


さらに皆さんが多かれ少なかれ色々経験したことがあると思うんですよ。専門家じゃなくても経験してきたことはたくさんあります。そういう意味では皆さんこそが経験の専門家なんですね。
その経験が「やっぱりこの条例やばくない?」って感じさせてると思うんです。
知識の専門家みたいに言語化できないけれど、経験でなんとなく危ないと感じて「やめておこう」と。


こういう場合どうするのが一番いいかというと、自分はやっぱり経験が正しいのではないかと思います。
知識の推測より、経験の推測の方があてになる。


山登りで目の前に霧が立ちこめたとき
「地図も装備もあるし霧の中の歩き方も知識で知ってるのだから、危険はあるかもしれないがこのまま進めるかもしれない」と言う学者と「この山でこの霧が出たら進むのは無理だ」と言うシェルパ
学者とシェルパ、どちらも「山の専門家」です。
あなたはどちらを信用しますか?


自分たちが聞きたいのは地図の見方や装備の使い方じゃなくて「進めるのか? 進めないのか?」です。
それと同じで自分たちが条例で知りたいのは法律の解釈や言葉じゃなく「大丈夫なのか? 大丈夫じゃないのか?」です。
それに答えられてこそ専門家だと自分なんかは思うのですが。


専門家:「大丈夫かもしれないし、大丈夫じゃないかもしれない」
私:「じゃあ大丈夫にする方法はありますか?」


これに答えられるのもね。